吉田: 昭和五年に『出版通信』が創刊されたということですが、創業者丸島誠さんの人となりにつきまして、小林さんからお話し願いませんでしょうか。
小林: 丸島誠さんは、私が一九七二年の九月に<新文化>に編集長で入社したときには社長として頑張っておられました。入社するときの条件が、「紙面については一切まかせましょう」ということでした。まかせるという言葉通り、紙面づくりについては一切文句をいいませんでした。
当時の<新文化>は、一面が広告と新聞の業界で、二面以下が出版業界という紙面構成でした。ちょうどブック戦争が始まったため、毎週一面で正味問題を特集として取り上げておりましたが、十月の中旬に書協と日書連が妥協し、書籍の正味を二%引き下げるという形でいったん終結しました。その直後に、「もうブック戦争は終わったのですから一面を元に戻してくださいと言われたました。しばらくこのままでやらせていただけませんか」と申し上げましたところ、当時専務の丸島日出夫現社長によるバックアップもあり、受け入れていただき続投ということになりました。
それにはエピソードがありまして、後日、読売新聞の関係者に聞いたところでは、当時の務台光雄社長から「最近<新文化>がおもしろいではないか」といわれたらしいのです。丸島社長は務台さんとは戦前からのおつきあいがありましたから大きな力となったのでしょう。
紀伊國屋書店などの取材も戦前からの太いパイプがありましたから、必ず自身で行っておられました。取材から帰ってくると、その場で原稿を少し癖のある字で鉛筆でわら半紙に書いておりました。そのころ六十五、六歳になっていたと思いますが、本当にまじめな人柄でした。それは亡くなるまで一貫しておられました。外に対しても内に対しても、誠実な対応というのは、たぶん中学を卒業して永代静雄さんの新聞研究所に入ったときから一貫して持ち続けていたのではなかったのでしょうか。今回復刻にあたり改めて『出版通信』を読み、丸島誠さんの性格がそのまま表れた新聞だと感じました。
『出版同盟新聞』について言えばこれは、丸島誠さんと帆刈芳之助さんの共同作品といえます。二人の関係は帆刈さんの方が年上で、丸島さんは帆刈さんに非常にかわいがられていたようです。ただ、ジャ−ナリストとしては二人は対称的ともいえます。帆刈さんという人は思想的・理論的な記事を得意とするいわゆる論客です。丸島さんももちろん主張や論説も書かれてはおりますが、むしろ客観的な報道を重視し、フィ−ルドワ−ク的な取材が得意だったのではないでしょうか。その点でも資料が少ない戦前戦中の出版界を解明するための一次資料としての価値があるのではないでしょうか。
植田: どのような経歴の方なのですか?
小林: 中学生の頃から新聞記者にあこがれ、中学を卒業後永代さんの新聞研究所を訪ねていったら採用してくれたそうです。誠実な人柄のうえ文章力があったからでしょう。昔の中学生ですから十七歳です。当時としてはたいへん高い給料をもらったそうです。
自分のことはあまり語りたがらない方でしたので永代さんのことなどを聞いたことはほとんどありません。もったいない話です。聞いておけば良かったなと思っています。今の社長も嫡男なのですが父親とはそういう話をしていないようです。亡くなって改めて「親父は偉かったな」とか「清潔だったんだな」とか、、「もう少し財産を残してくれたら俺たちは苦労しなくてすんだのに」といういい方をしていたことがあります。(笑い)。ほとんど話をしなかったようです。
一つには、戦争に対して協力し、時局に妥協したという自責の念があったのではないでしょうか。私などが時々話題にしても、「あ、それはこうだったよ」と一言しかいわないのです。『出版通信』などを読むと記事にされており、良く知っているはずなのですが、背景説明等は全然してくれないのです。だいたい業界紙をやっている人間というのは、べらべらと話す人が多いのですが、そういう部分はありませんでした。
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