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第108回
このサイン本いくらですか?
 中学生だろうか。制服を着た少女から「このサイン本いくらですか?」と尋ねられた。
 
 本には本体価格が印刷されているから、店頭で値段を尋ねられることはまずない。つまりそのお客様は、まさか作家のサインが入った本を、そうでない本と同じ価格で販売しているとは思わなかったのだ。
 
 その一件を、若さゆえの無知だね、と笑い話にすることもできる。だが、10年間どっぷりと業界にいた私に、何か大事なことをお忘れではないかい、と問うているような気もした。顔を紅潮させてサイン本を抱く少女を見て、私は私に疑いを持ったのだ。
 
 執筆の時間を割き、名前がゲシュタルト崩壊するほどサインをしてもらっても、それに対する報酬を作家に支払うことはない。
 
 だからこそ、新刊書店はサイン本を定価で販売できるのだ。
 
 作家は、販促になればと、新刊が出るたびに快く引き受けてくれる。それでも、サイン本の値段を尋ねた少女のように、それを当たり前と思わない感覚は失いたくない。
 
 人の関係や、物事が歪み始めるのは、してもらったことを当たり前だと思い始めた瞬間からだ。それはじわじわと、自分自身をも変えてしまう。
 
 サイン本の話をしていたはずだが、なぜか今頭に浮かんでいるのは、別れた恋人や親の顔である。
 
(三省堂書店神保町本店/新井見枝香)
 
(2018年10月4日更新/ 本紙「新文化」2018年9月27日号掲載)
               
 
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