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第6回
光をあてる
 小説を、書こうとしたことがある。まずは登場人物を考えようとノートを広げ、いくつかアイデアを練った段階でぴたりとペンが止まった。紙の上とはいえ、過去も未来もあるひとりの人間を現出させるには、もう一度初めから人生をやり直すくらいの時間やパワーが必要な気がした。途方もなさにめまいがして静かにノートを閉じる。
 
 『あとは切手を、一枚貼るだけ』(中央公論新社)は、男女の登場人物による往復書簡という形で物語が進む。女性は小川洋子さんが、男性は堀江敏幸さんが担当している。かつての恋人である女性から、これからの人生をずっとまぶたを閉じたまま過ごすことに決めたと手紙で打ち明けられる場面から物語ははじまる。
 
 打ち合わせ一切なし、というなかなかスリリングな手紙のやりとりを読みながら、他者によって織り成されていく人生の綾について考えていた。物語で「共通の」思い出として語られる出来事は、ふたりの作家のうちどちらか一方が生み出した、後付けされた記憶だ。あの日、あなたはこう言いましたね。あれをわたしにくれましたね。他者の記憶にだけ存在する、わたしの記録。虚空から放たれたはずの過去が、「わたし」と「あなた」を彩る色のひとつひとつに落ち着いていく。
 
 もしかしたら、現実のわたしも同じようなものかもしれないな、と気づく。今までわたしと関わったひとの中、それぞれに「わたし」という像がある。この像が、すべてまったく同じ、なんてことはあり得ない。わたしの思う「わたし」とはかけ離れていても、間違いだとは言い切れない。
 
 物語は、この差異が違和となって表出する場所に生まれるのではないだろうか。小説を書くために必要だったのは、ガチガチに作り込まれた人物像を練り上げることではなく、ひとつの出来事に多方面から光を当てるための、他者の視点を獲得することだった。
 
 手紙をやり取りしながら、過去の出来事をひとつずつ擦り合わせていくふたり。積み重なった小さな違和感は、ふたりが離れる原因となったある事件でついに臨界点を超える。どちらの記憶が正しいのか、と問うことはきっと無意味だろう。物語を俯瞰して眺めるには、登場人物の座から降りる必要がある。
 
 「私たちが交わしているのは、世界を成り立たせる、あらゆる事象たちの会話の一部であり、誰一人すべてを読むことは叶わない壮大な叙事詩の、途中に出てくるわずかな数語です」
 
 たとえ離れて暮らすしかなくても、ともに叙事詩の一部として生きられるなら、ふたりにとってこれほど幸せなことはないだろう。物語の登場人物になれないわたしは、彼らをとても羨ましく思う。

(MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店)

(2019年9月26日更新  / 本紙「新文化」2019年9月12日号掲載)
               
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