第5回 CONTINUE?▸YES NO

 サァ、ボウケンガハジマリマス。ナマエハナニニシマスカ。
 主人公の名前はヒカリ。「ポケットゲーム」と呼ばれるゲーム機(昔のゲームボーイみたいな)をいつも持ち歩いている。そしてタケムラとイシとイクコ。4人はともに中学生で、両親の火葬で訪れた火葬場で出会った。
 人生はよくRPG(ロールプレイングゲーム)にたとえられるけれど、現実世界でエンカウントする敵は、分かりやすく怪物の見た目をしてはやってこない。たくさんの「死ね」が彫られた教室の机。閉じ込められた掃除用具入れのなかから見る級友たちの顔。バトルモードへの場面転換もない。日常が繰り返されるだけの世界で彼らの前に現れたのは、「両親が死んだのに泣けない自分」という未知の怪物だった。キノブックスでノベライズ化された映画「ウィーアーリトルゾンビーズ」(長久允脚本・監督)は、4人が火葬場を抜け出すところから始まる。彼らの冒険の目的は、感情を手に入れること。
 小さい頃からRPGが苦手だった。完成された物語世界で、レベル1から始まる自分だけが未完成な存在のような気がして落ち着かなかった。彼らももしかしたら、そんな不安のなかにいたのだろうか。泣けないこと自体は悪いことではない。絶対悲しまなきゃいけないという決まりもない。
 「だから、変わらないよ、いてもいなくても。一人だから、もともと。デフォルトで、孤独だからさ。寂しくないんだよ。寂しいとか、知らない感情って感じ」
 ヒカリのこの台詞は、強がりはあってもまるきり嘘ということはないだろう。それでも彼らが泣くことにこだわる理由。映画の終盤、ヒカリが見た夢のなかで画面いっぱいに現れた文字を見て少しだけ分かった気がした。
 CONTINUE?▸YES NO
 人生はたぶん、大なり小なりこの繰り返しだ。選択肢が現れるたびYESを選び続けるには、失敗を笑い飛ばす強さとは別に、風邪をひいた日におでこに添えられる手の重みのような温もりが必要なときもある。自分は愛されていたのだろうか。両親に直接聞くことはもう叶わない。それでも泣くことができたら。死を悲しむことができたら。「愛されていた」という確信は、最後の最後、希望へのひと押しを助けるかもしれない。自分だけの小さな確信が世界を変えることもある。
 クソみたいな世界でも、死んでるようにしか生きられなくても、それでも生きていてほしい。大人は知っている。人生のラスボスはコンティニューし続けた先にしか現れない。
 エンドロールが終わって館内が明るくなっても、どこかで今も彼らの冒険が続いているような気がしていた。

(MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店)

(2019年8月19日更新  / 本紙「新文化」2019年8月1日号掲載)