第26回 犬の時間

 マンションの階段を降りて右に行くと、少し遠回りになるけれど川沿いの遊歩道を通って駅に着ける。ほんの3分だけ早く家を出ればいいだけなのにこのわずかな時間がどうしても捻出できなくて、今年の春は桜の一番いい時期を逃してしまった。仕事帰りにスーパーに寄ったあと、街灯の灯りに滲む桜を見上げ、明日こそはと誓いながら歩いた。枝は川を覗くように伸びている。
 少し早く家を出た朝にだけ出会える犬がいる。スタンダードプードルとトイプードルの、ちょうど真ん中くらいの大きさの茶色い人懐っこい子で、初めて会った日も目が合った瞬間にもう尻尾を振りながら近づいてきた。飼い主の女性に一言断って手を差し出すと、私がしゃがみきるよりほんの少し早く体ごとぶつかってきて思わず尻もちをついた。子犬の時からこうして体をめいっぱい使って甘えさせてもらえたんだなと分かる。ふわふわの前足を掴むと意外なほどに太くて、慌ててリードを引っ張る飼い主が難儀するほど力も強い。
 桜を見逃し続けていた間、この子にも会えなかった。桜は毎日変化する。五分咲きくらいかと思っていたらあっという間に満開になり、気づけば葉桜になっていた。久しぶりにマンションの前で会った飼い主の女性に「1カ月ぶりですね」と言われ驚いた。もともと感情表現の豊かな犬だったけれど、そう言われると今日は特に激しい気もしてくる。朝の短い一瞬、飼い主と挨拶を交わす瞬間だけわしゃわしゃと撫でて去っていく私のことを、一体どう思っているのだろう。久しぶりだね、覚えててくれた? と声をかけると、飼い主が代わりに答えてくれた。
 「会えなかった1カ月の間、通りかかるたびに立ち止まって、あなたが階段から降りてくるのを待っていました」
 犬の目線に合わせてしゃがんだまま、マンションの階段を見上げてみる。この階段を降りてきて、自分を撫でてくれるひと。この子にとって自分はきっとそれだけの存在。それでも、撫でられて嬉しかったという記憶がこの子を1カ月もの間、ここに立ち止まらせたのかと思うと、自分がひどく軽率な行動を取ってしまったように思えてくる。待ち合わせの約束ができたらいいのにねぇ。そう話しかけると、分かったというようにご機嫌に鼻を鳴らした。
 犬はすべてかわいい。道ですれ違う散歩中の犬も、通りゆく人間に目を走らせる庭先の犬も、スーパーの前につながれて首を長くしながら店内を覗く犬も、まだ出会ったことのない犬もすべて幸せに暮らせているといいなと思う。
 太田靖久(小説)、金川晋吾(写真)『犬たちの状態』(フィルムアート社)は、映画館に勤める男性が主人公の小説でたくさんの犬が出てくる。良くも悪くも、関わる人間次第で犬の人生は大きく変わる。家族と言い切るには人間側に委ねられている部分が多すぎて気が引けてしまうけれど、犬がいる人生はとてもいい。たとえそれが物語でも。

(ライター・書評家)

(2021年5月27日更新  / 本紙「新文化」2021年5月13日号掲載)