第38回 読むための筋力

 筋肉は嘘をつかない。
 とはいえ、筋力トレーニング後のパンプアップに対する感慨ではなくて、私の場合は筋肉痛への所感だ。
 先日、どうしても1時間以上歩かなければいけない状況に陥った。話し相手がいたということもあり、歩いている最中は特段辛いと感じることもなく歩き切ったものの、一晩寝て起きたら足が棒になっていた。ひどい筋肉痛だった。
 運動とは縁遠い生活を送って久しい。それでも「中学高校と運動部だった」という遠い過去の栄光を無根拠に信じて、たまにこうして無理をしてしまうこともある。筋肉は嘘をつかない。長い間使われなかった筋肉はもうとっくの昔に衰えている。
 使わなければ衰えるのは、筋肉だけではないように思う。「読む」という行為もそう。読み続けることで育つ「読む筋力」のようなものがある。
 運動がそうであるように、読むという行為も人それぞれに特性や向き不向きがある。最初から難なく何時間も読めた人もいるだろうし、頑張っても数ページしか集中が保てない人もいる。そういう個人差を考慮しても、読み続けていくうちに読み慣れていくものではある気がするし、「慣れ」はきっと後天的に身につけることのできる技術みたいなものだ。
 毎日数時間読むのが当たり前の生活を送っていた頃は気にしたこともなかったが、読めなくなって初めて「読む能力」とは日々の反芻の賜物だったと気づいた。
 去年から始めた語学の勉強に、読む時間を削って時間を捻出する。語学もいかに習慣づけて毎日続けるかが大事で、語学と読書、どちらも百パーセントで取り組もうとするとどうしたって時間が足りない。
 これは始めてみて気づいたのだが、読書が能動的な行為であるのに対して、勉強はひとりでコツコツ進める分には意外にも受動的な行為だった。
 気分が乗らない日、本を開くには気合いが足りない日でも、とにかく覚えればいいだけの単語学習には比較的容易に手が伸ばせる。そのうち自然と勉強に費やす時間が増えていって、そうして数カ月過ごすうちに気がついたら立派な「読めない人」になっていた。
 困った。それでも毎月友人たちと開いている文芸誌の読書会のために、何とか読む。短い時間に詰め込んで何本も続けて読む。読書会のために、普段より一層能動的に読まざるを得なくて、とても骨の折れる時間が続く。
 それでも不思議と苦しいわけではない。ひとつ読み終えるごとに、書かれていたものを辿って遡って、輪郭を掴もうと試みる。筋肉は覚えている。もっと軽やかに読めていた時のことを。
 ふと我に返る。随分集中していたようで、いつの間にか長い時間が過ぎている。ぼうっとする。「筋肉痛」が訪れる予感がする。しばらく使い物にならないな。そんなことを考えながら過ごす時間も、そう悪いものではない。

(ライター・書評家)

(2022年5月26日更新  / 本紙「新文化」2022年5月12日号掲載)