第23回 きょろきょろ、のその先

 歌人・穂村弘さんの『図書館の外は嵐 穂村弘の読書日記』(文藝春秋)を読んでいたら、こんな記述に出会った。
 「すごく面白い作品に出会うと、その本の世界からいったん顔を上げてきょろきょろする癖があるんだけど、あれって一体なんなんだろう。わざと寸止めして感動を引き延ばすためか、それとも本の衝撃によって現実世界の側に何か変化がないか確認しているのだろうか。」
 これ、私もしてる。気がついたら、この文章に出会った衝撃で手にしていた本をいったん閉じて、きょろきょろしていた。ほら、やっぱりしてる!
 いったん自覚してしまえば、どうして今までこんなに当たり前のことを明文化せずにきてしまったんだろうと不思議な気持ちにすらなる。本の世界から顔を上げてまで、私は一体何を見て、何を考えているのだろう。
 私は、喫茶店や電車の中で本を読むのが好きだ。適度にざわざわしている空間で人の気配を感じながら、私だけが本の中の世界に没入している感覚が心地いい。コロナが流行り始めてからなかなか喫茶店で長居することも適わなくなり、どこで本を読めばいいか分からずに困っている。いい場所があればぜひ教えてほしい……。
 閑話休題。できることなら、そのままずっとゆったり本の世界に浸っていたいけれど、たった一行が、たった一言が、その流れを一瞬のうちに吹き飛ばしてしまうことがある。
 どうしてここにこの言葉が、この語順で、どうして存在することができているんだろうと、自分がいま何を読んでしまったのか、すぐには理解することができない。ページの中でそこだけ浮かび上がっているように見えるだけでなく、その前後の言葉やここに至るまでに読み重ねてきた情景の、意味や見え方までも一変してしまうような、そんな衝撃的な瞬間のすぐあと、私は本から顔を上げて思わずあたりを見回してしまう。
 私の中でこんなにすごいことが起きているのに、見える世界はまったく動じていないように思えてほっとする。目に映る景色も全然スローモーションになったりしていない。この衝撃が今はまだ世界に何の影響も与えていないことを確かめて胸をなでおろす。
 この出会いを、すぐにでも伝えたいと思う顔がいくつかちらちらと浮かんでくるけれど、まだしばらくは誰にも言わず、私だけのものにしていたい。私にとっては、こうしてひとり噛みしめている時間が読書の醍醐味であり、いちばんのご褒美なのかもしれない。こういう孤独なら何度でも味わいたい。
 穂村さんの読書日記には小説に歌集に漫画にと、ジャンルを超えてたくさんの本が紹介されていて、読み終える頃には長い長い読みたい本リストが出来上がっていた。特別な一冊になり得る本のタイトルは光って見える……わけはなくて、勘と予感を信じながら、今日も今日とて文字を追う。

(ライター・書評家)

(2021年2月25日更新  / 本紙「新文化」2021年2月4日号掲載)