第30回 温泉と読書

 7月の中旬は、福井県の芦原温泉に滞在していた。温泉街にあるストリップ劇場で踊るためだ。寝泊まりしていた劇場の2階からは、通りを挟んだ「芦湯」の屋根が見えた。朝7時から解放されている足湯の施設で、誰でも無料で利用できる。目覚めると、寝癖のままサンダルをつっかけて、まだ誰もいない湯船に足を浸した。大きな丸い木のテーブルの下に、温泉が湧いている。
 毎日のように通っていると、自転車に乗ってやってくる掃除係の女性と顔見知りになった。ズボンの裾を捲った彼女は、足を湯に浸しながら拭き掃除を始める。「今日も暑いね」と話しかけられれば、本をめくる手を止めて、世間話をした。
 この読書は、急ぐ必要がない。10日間の旅には、本を1冊しか持ってきていなかった。青山美智子さんの新刊『ただいま神様当番』(宝島社)のみ。温泉が湧く土地には、人間がポヤンとする空気が漂う。案の定、本は1冊で十分だった。
 掃除係の彼女が、毎日拭いてくれた木のテーブルには、私の汗と涙が染みこんでいる。身体から水分が出やすくなるのは温泉の作用だろうか。常にじんわりと汗をかき、物語が面白くなると、ぽたぽたと涙を落とした。温泉に足を浸しながら読書をする。あの幸福な時間が、東京に戻った今は、とても恋しい。

(新井見枝香/HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE)

(本紙「新文化」2020年8月6日号掲載)