第34回 人生のディテール

 東京に雪が降った日、電車が動いているうちにと慌てて乗り込んだ車内で、小さな手袋を拾った。
 片方だけのそれはピンク色で、ずっしりと濡れて冷たかった。もう片割れは、と目を上げると、入口近くに立つ女の子のリュックの側面のポケットに無造作に突っ込まれているのが見えた。そっと肩を叩いて差し出すと、落としたことに気づいていなかった彼女はとても驚いた顔をして、まんまるの目のまま「ありがとう」と言った。東京では珍しい、積もるほどの雪に高揚しているのか、はたまた雪遊びの名残なのか、頬が薄赤く色づいていた。
 たまたま同じ電車に乗り合わせただけの少女の頬が美しく紅潮していることに気づいた時、それまでただのうすぼんやりとした背景に過ぎなかったはずの場所から、紅潮した頬を手がかりにいくつもの物語が立ち上がってくるような感覚になった。他人の人生の細部をふいに垣間見てしまったという思いが強くて、少しの背徳感とともににその日はずっと、あの少女が今日一日幸せだといいなと思いながら過ごした。
 池辺葵さんの「ブランチライン」(祥伝社)という漫画は、四姉妹とその母、そして姉妹の長女の息子を中心に話が進む。それぞれ別々に暮らしていたが、長女・イチは離婚を機に山の上にある実家で母親と暮らし始める。
 私には弟がふたりいるけれど、同性の「きょうだい」はいない。弟という存在は、私にとっては物心ついてからずっと庇護すべき対象として存在していて、弟たちが弟同士で好き勝手遊んでいてもどこかずっと心が休まらなかった。家族とはいえ、異性という「わからなさ」が逆に執着心になって、完全に自分とは別の人間として認識するまで長い時間が必要だったように思う。
 そう、だから四姉妹の関係性が私にはとても新鮮に映る。4人は適度に他人で、それでいて適当なタイミングと調子で姉妹としか言いようのない振る舞いをする。姉妹のプライベートに首をつっこむ時は、いちばん近くにいる家族として言うことはずばずば言いながら側にいる。
 側にいるということは関係性が近すぎても遠すぎても難しいもので、言い合えたうえで側にいられるという関係がとても羨ましい。
 イチには15年以上通う占い師がいて、彼女がイチが帰ったあとに心の中でこうつぶやくのだ。「イチさんいつも祈ってる」「いつもイチさんが守られるよう祈ってる」
 彼女はもちろん姉妹と血はつながっていないし、会社の同僚のように毎日顔を合わせるわけでもない。彼女とイチを結びつけているのは、期せずしてお互いの人生のディテールを見せあうような形になってしまった、特別な出会いだった。
 敢えて他人のままで、それでも遠くから幸せを祈る彼女と、雪の日の出来事が重なった。

(ライター・書評家)

(2022年2月10日更新  / 本紙「新文化」2022年1月27日号掲載)